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パワースポット情報


宮島パワースポット紹介
地元の方も知らない場所が含まれています
知りたい方は、問い合わせください。内緒で教えます。

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まだまだ、たくさん有りますので随時紹介します。

ちょっと足を伸ばして、奥の院へ(弥山本堂から、往復1時間程度)



今風に言えば、パワースポット。
背筋が伸びる思いです。
今は、サザンカが美しく咲いています。

弥山霊火堂の裏 岩に新たに出現



武家?公家?

三剣岩屋
知っていましたか?駒ケ林の隣にある、通称「火山」「名無し山」と言われる山です。
江戸時代の絵図によると、鳥居もマークもあり、昔はお参りに行っていたようです。

近日中に、宮島弥山倶楽部でも行ってみます。
景色の素晴らしい場所です。一歩下ると、死の世界が広がる不思議な場所です。

偶然発見。こんな場所に。 2010.9.18

 
今まで、気がつかなかった。
弥山へ行くと、新しい発見がある。


 

なんか変ではないですか?




山口県柳井にある、般若寺の九十世住職福嶋さんから

さて、厳島の別の姿を見つけました。
ここは、龍宮と呼ばれる場所からの今朝の写真です。 
この地から毎年大晦日に般若寺の「龍燈の松」に「龍燈」という火の玉が飛んでくる「龍神屋敷」なる地があります。 
 
もしかしたら厳島の「龍燈」もここから飛んだのでは!?
と勝手に想像しています。 
 
この秋には弥山で護摩を焚かせて頂くことになっています。 「龍燈」になる護摩を焚けますよう今から準備をしています。
 
また、何かありましたらメールさせて頂きます。
 
般若寺 福嶋弘昭 拝

不思議なもの




一読者より
「※ただし、宮島沿岸部の大川浦からは、縄文〜平安期のおびただしい量の遺物や、青銅製の八稜鏡が採集されており、定住や祭祀の可能性も考えられる」

宮島不思議探検隊、「大海笑」のハンドルネーム

「宮島の歴史探究には、この人なくしては」のブログです。
皆さん覗いてみてください。
今後も興味深い話が登場してきます。

ここクリック

第二十三回・謎の弥山古代寺院を訪ねてE

興味ある画像は、ここクリック 覗いてみてください

お待たせ致しました。謎の古代寺院「水精寺」を求めての探訪記も、いよいよ弥山山頂に到着です。
山頂には、古代から磐座として信仰されて来たという「頂上岩」が積み重なっています(画像一枚目参照)。
以前「弥山ペトログラフの謎」でも紹介した様に、謎めいた文様の残る岩もあり、様々な点で興味深い場所です。

ここで、少し豆知識。
弥山で古代から続いて来た山岳仏教、いわゆる「修験道」には、火を用いた修行方法があります。
それが「護摩(ごま)焚き」で、修行者が護摩火を焚き、一般の人々の願い事を仏に取り次いだり、修行者自身の煩悩を如来の智火によって打ち消そうとするものです。
「護摩」の語源は、サンスクリット語の「ホーマ(火による供犠)」であり、元々はバラモン教の火の儀式だったと言います。
現在でも、山麓の大聖院などでは、この護摩焚きが行われている様です。

また、修験道の伝わる山では、「不滅の霊火」というものが灯されて来たと言います。
これは、古くから伝わる神聖な火を、御堂の中に炉を設け、絶えず燃やし続けるというもので、宮島・弥山の不滅霊火堂をはじめ、山形県羽黒山の荒沢寺、山形市郊外の立石寺などに、その名残を見る事が出来ます。
一説によると、神聖な火を管理する宗教者を「火治り(ひしり)」と呼んだ事が、後に聖者を意味する言葉「聖(ひじり)」に転じたのではないか、と言われています。


さて、以前紹介した、妹尾周三さんの論文によると、この「護摩焚き」や「不滅の霊火」の痕跡が、弥山山頂の岩に見られると言います。
今回、実際に捜してみたところ・・・確かにありました!!
平坦な岩盤の上に、火を焚いた事で表面が剥がれ、また赤く変色した跡が、いくつも残されているのです(画像二〜五枚目参照)。
今回、自分が気付く事が出来ただけでも、六〜七個所はあるでしょうか。
おそらく、かつての修験者たちは、宮島で最も天に近いこの地点で修行を行い、神仏に祈りを捧げたのでしょう。

いつの時代のものかは分かりませんが、かつて修験者たちが火を焚き、祈りを捧げた痕跡が、こうして今も確認出来るというのは、非常に貴重な事だと思います。
皆様も、弥山に登った際には、是非捜してみて下さい。
もしかしたら、新たな発見があるかも知れません。


次回は、弥山の北西に位置する巨大岩盤「駒ヶ林」を目指します。


雑学として 

宮島の祭神イチキシマノヒメノミコト(市杵島姫命=市岐島姫命=伊都岐島大神)はスサノオの御子で宗像三神の一人でもあり天孫の命の先導役として満貫の神であり、
厳島(宮神嶋) に天降り給うということは宮島の追記で述べてある。
そしてなぜ、宗像から宮島に来たかということはあまり知られていない。
そこで広島県豊田郡大崎島(おおさきじま)に残る昔話をご紹介します。
イチキシマノヒメノミコトには、二歳の子供がありました。
大変かわいい子供だったそうです。ところが突然神隠しにあったかのように姿を隠されたといいます。
どこにいったのか、はたまた、さらわれたのかも解らなかったようです。姫はあらゆる手段をもってさがしましたが、ついに見つかりませんでした。
そうするうちに、姫は元気がなくなり、鬱状態になって、キジがケーンと鳴く声が特にいやになりました。
このような経緯で、住み慣れた所を離れて、別の場所で生活したいと思うようになりました。
そして、どこかに平和で暮らせるところがあるはずだという気持ちになって、海路、瀬戸内に入られて、きれいな島があると上陸して生活するわけですが、
不吉な事が重なり、また、別のきれいな島に移るという生活でした。
そうするうちに、大崎島の神峯山(しんぽうざん・かんのみね)が見えましたので、上陸してその山に登ろうとしました。
近くに木江港(きのえこう)があるので、そこから上陸しようとしましたが、木々がじゃまして登れそうも無い事が解り、北西に進路を変え、
矢弓(やゆみ)の加組の鼻(かくみのはな)で休憩していると、大崎町中野の住民が海に鳥居を立てて、姫の来られるのを待っていました。
そして、中野から上陸して神峯山に登ると大変きれいだったので、この地に鎮座すべきとして見とれていると、
一羽のキジが飛んできて姫の頭に糞をして去っていきました。
前からキジに対して良く思っていなかったのにもまして、糞をかけられて、体が穢れてしまっことで、この地を離れてしまったのです。
そして、大串の外浜(とばま)に到着し、各地を回っていると眼前に宮島が見えたといいます。


弥山なぞ解き

海抜350mのなぞ解き

地図を見てください。
宮島の海抜350mに何があるか?
もみじ谷、四之宮、大聖院、多宝塔、大元、各ルートにあります。
みなさん、考えてみてください。
博奕尾ルートには、ありません が 一つ心当たりがあるのが
登山道の右手にある岩。松の木がまるで龍が地を這うように巻いた場所があります。
岩は、誰かがお祭りしています。
私が作った弥山MAPには掲載しています。違っているかもしれません。
近日中に確認に行ってみます。
宮島弥山 350mのなぞ
 
大元ルート  風穴
多宝塔ルート 朝日観音
大聖院ルート 太夫戻し岩
四之宮ルート 夕日観音
もみじ谷ルート 特定のものはなし
博奕尾ルート 調査中(龍の松と命名した場所があります)
 
もみじ谷は、植生が変わるという地点。
私たちが登っても、空気が変わるのを感じます。
人間本来が持っていた五感に影響があるのでしょうか?
それにしても、偶然にしては、各ルートにめぼしいものが
あるのは不思議です。

<宮島弥山倶楽部メンバー 岩崎さんから>
島植生を代表するミミズバイの 上限が 丁度350メートルです。
紅葉谷の17丁の大黒天も 大聖院ルートの白鬚神社・満願地蔵 も 大砂利地蔵も
350メートル前後ではなかったでしょうか。奥の院は330mですが。
 
弥山を囲んで ぐるりと 350メートル前後で 
霊的な 結界  「磐境いわさか」が 存在しているように思えてなりません。
だから ここ太夫戻し岩で 福島正則も 帰らざるを得なかったのか
と思えます。ただし 明確な根拠はありませんが。でも 不思議ですね。

ご存知ですか

厳島神社の廻廊を出て、橋を渡る手前の右手にある石碑。

  




白雲洞とはナンだったのでしょか?

宮島弥山倶楽部メンバー岩崎さんからの情報
 
「芸備日々新聞」における厳島関連記事
 
明治 30年6月26日
 
  大元谷ホテル  厳島大元谷白雲洞の主人の能美正五郎氏は
  明治二十二年大元谷公園地及び神地などを拝借し、・・・・・
  ・・・・明治二十七年までに・・・・家屋落成したり、是において
  大いに風致を増し、 一の立派なる庭園とはなれり、
  ・・・・・ 二十八年中一のホテルを建設せんと思い立ち、
  ・・・・・ 落成したれば 去る二十二日その開業式をおこなへり
 
明治 29年6月6日
  厳島の白雲洞
   仙郷中の仙郷は 大元谷の白雲洞にぞある
   酒も出づべく肴も出づべく ・・・・・ 新座敷は 五十畳敷きに
   して 会席にも充つべきものなり・・・・
   風雅の心ある人は 一日の閑を偸みて遊びたまへ


宮島マニアックなページ


吉田 清神社の境内

亀甲積み 

宮島の亀甲と何か関係があるのでしょうか?

  

紹介文

整層樵石積み(亀甲積み)
広島県安芸高田市吉田町 清ノ社社壇 
名石工を多く出した山陽地方の社寺や旧家の石垣には、こうした模範的な亀甲積みがさいさい見かけられる。数十年からニ、三百年を経ながら微動だにしていない。

ちなみに
亀甲積
鶴目積(俵口積)
山目打込積
布築伐合
曲尺(金)場取残積
四方伐合積
野面積
鏡積
半鶴半伐合
の種類があるようだ
詳しくは、皆さんで調べてください。
資料は、事務局で頂いてきました。
機会がありましたら、紹介します。


明治時代の弥山MAP



興味深いのは、多宝塔ルートに。夕日観音・朝日観音が記載されている。

宮島キーワード検索


皆さん知っていますか?本によって微妙に違いのが分かりますか?

白雲洞(厳島神社の廻廊を出たところにヒントの石碑があります)

別資料によると

宮島町史によると (現在3冊発行されています)
朝日観音(奥の院より三-四丁下りてあり)
夕日観音(朝日の観音の下にあり)
護摩谷(夕日の観音のかたわらに有)
龍洞穴(夕日の観音のかたわらに有)
多寶塔(方二間にして、高サ九輪迄凡十二間)
                     弥山参詣所此所にて終わる。是より下りて則 大元の森に至るなり。
三剱岩屋(夕日の観音より、6-7町辰巳にあたりてあり)


厳島図絵によると(現在でも、復刻版を購入することが出来ます)
三剱岩屋 龍が馬場に至る路にあり
注:龍馬場・・・巌上に馬蹄の跡あるを以って、一に駒が林ともいふ。弘中兄弟敗死のところなり。

絵馬岩 (同上の上数十丈の巌壁なり。中央に馬の形を画くがごとし。遠くを望めば赤色にして其色昔より曾て變ぜず。)
龍窟(一に護摩谷の窟といふ。盤石上より覆いかかりて、一に室屋のごとし、内に弘法大師の像を安けり。」
この所は、弘法大師護摩修法のあとなりといふ。
傍に龍が洞とていにしへの龍の出しといふ穴あり。其深さ知るべからず。
すべて此所を龍が馬場といふも名の起りはここなるべし。

朝日観音堂 
夕日観音堂(「この処より、神馬屋町地蔵院のうへに下りいたるなり」



頂いた資料によると

朝日観音堂  本尊 十一面観世音菩薩 

夕日観音堂 本尊 正観世音菩薩  

「この処より、神馬屋町地蔵院のうへに下りいたるなり」となっています。

となっています。


これがアナグマ

白いタヌキ


2007.2.3 桟橋から五木茶屋へ向かう途中


宮島弥山倶楽部のメンバー 森脇さんのHPから

軍用道路

ishidatami01.jpg

桟橋をおりて杉の浦(包ヶ浦)方面へは、海岸線沿いに幅の広い道路が通っています。
今は当たり前のように通っている海岸線沿い道路ですが、昔は山を抜ける道しかなかったとか・・・・

今でいう、うぐいす道から杉の浦へと抜ける山道の初めと終わりに石畳がある。
私達は普段、近道として使っていて、木々の間を縫うように通っている道です。
お散歩コースには気持ちよいのですが・・・・
車で通ると、石畳にさしかかるとガタンガタンとうるさくわずらわしさを感じます。

しかしこの道は、包ヶ浦火薬庫、鷹巣砲台築造地に通じる軍用道路
明治30年に築造されたものだという。
今では、数少ない昔の名残のある道路です。

普段なにげなく通っている道路にも歴史があるんだな


古い資料から どこでしょうか?

多々良探検隊の様子
広大の古瀬教授と一緒に、海岸を捜索。
九州から来たと思われる、土器も見つけました。
と言っても、先生が話されるだけで、私には識別は出来ませんでした。
是非、調査の時は、参加させてくださいとお願いしています。


多々良の山中にあった、煙突のようなもの。
  


煙突状のものとはと地下でつながっています
この下は、かまどのようになっていました。
付近には、石垣や生活のためと思われる、かまど・貝殻が散乱していました。

  

  


賽の河原(大聖院コース) 

 
弥山山頂                                                             仁王門

 
旧三鬼堂                                          旧毘沙門堂



旧弥山本堂


  

この時撮影した映像 



まるで龍が守っているように見えませんか?
現在は、この場所は危険なので行くことは出来ません。

昭和35年くらいまでは、老婆がここに住んで御山神社を守っていたそうです。
後ろの岩の中にあった、首のない仏像は、その後ほかの場所に安置されました。


テレビの番組から

お昼の番組 司会 みのもんた ホームテレビより

 

 

 

 

 

 

 

 

このようなご意見を頂きましたので、脚色なく原文で掲載します

実は先程「宮島弥山倶楽部」ホームページの方で,先週土曜日に広島で放送された「みのもんたの歴史ミステリー」の一節
「天狗は古代イスラエル人だった」が紹介されているのを拝見致しまして,余計な事とは思いつつ,
少し自分の知っている範囲で意見を述べさせて頂きたく思います。
 
日本の歴史に『天狗』が初めて登場するのは,奈良時代に成立した歴史書『日本書紀』なのですが,この中では「流れ星」を指す言葉として書かれています。
これは元々,中国の伝説上の妖怪で,長い尾を引いた流星や彗星を,狐や犬(狗)の様な動物に見立てたものの様です。
その後,鎌倉時代になると,
仏教の影響で日本に伝わったガルーダ(迦楼羅)のイメージが天狗に取り入れられ,天狗は半人半鳥の怪物として描写される様になります。
その後,山で修行する修験者(山伏)のイメージが,「山に住む怪しい者達」という事で天狗に取り入れられ,
さらに日本神話に登場する「猿田彦」が天狗と同一視される様になる等,
様々なイメージが取り入れられた事で,室町時代頃には我々の知る「鼻が長く,山伏の服装をした赤ら顔の天狗」のイメージが完成します。
 
*参考文献
『日本化け物史講座』 原田実著 楽工社
 
もし本当に,古代イスラエル人が日本に来て,天狗のモチーフになったのであれば,
日本史における天狗は,最初から我々の知るあの姿で描写されているハズです。
「鬼」にしてもそうですが,日本で伝承される妖怪の数々は,時代の変遷と共に様々なイメージが加わり,現代の我々が知る姿になっています。
最初からあの姿だった,と考えるべきではありません。
みのもんた氏のあの番組は,都合よくこじつけられる部分だけを抜き出し,怪しげな研究者にコメントさせる事で,本来の歴史とは懸け離れたものになっています。
おそらく今後も,怪しげな説を作為的に紹介して行くのでしょう。
ついでに言うと,番組中で紹介された天狗の絵は江戸時代に描かれたものです。
もし本当に「写実的」だと言うのなら,イスラエル人よりも,南蛮人の影響を考えるべきでしょう。
 
・・・長々と失礼致しました。ああいう番組には,どうしても抵抗を感じてしまいますので。
もし出来れば,あの番組に関して「否定的な見解もある」事を,少し紹介して頂けると有り難いです。

ネットから
 
天狗 A  天狗 B 天狗 C 天狗 D 天狗 E

ブログから見つけました

右の写真が、2007年9月22日現在

 





 






 

岩惣と記載しています


大正末期から昭和初期に発行された絵葉書のようです



宮島弥山倶楽部メンバー情報

会員報告 BY yamashita

716日、宮島の入浜、腰細海岸に比較写真撮影の為、訪れて来ました。 青海苔海岸まで行く予定でしたが、あいにくの雷雨で断念しました。 従って、青海苔海岸の比較カラー写真は現在の風景ではなく、昨年の2月撮影のものです。 



入浜の風景写真で、昭和43年夏の撮影。 海岸に沿って松林が続いていた事が解ります。 船も殆どが木造、FRP船は滅多にお目にかかれない時代でした。 林の中にテントが建てられておりキャンプ客が訪れています。 手前に見えるカキ筏は台風で漂着したものでしょうか、記憶が定かではありません。 


入浜に鎮座する鷹ノ巣浦神社で撮影日は昭和43年の夏、39年前の姿になります。
 神社の右後方には夏季限定の売店が見えています。
松林の中に鎮座していた様子が良く解り、現在の姿からは想像がつきません。



腰細浦にある著名な陸繋島の写真で昭和43年の夏。
あまりの変わり様に驚きます。海岸線が別物に変化しています。
たかだか
40年間で、この変化は何としたものでしょうか。
昭和の写真、手前の倒木は台風の影響かどうか、疑問に思っています。



腰細浦の陸繋島から振り返ってみた海岸線。
あまりに地形が変化している為、正確な撮影地点は特定出来ません。
撮影日時はこれまでの写真と違って、昭和
43年春。砂浜が侵食されて松が倒れている様に見えます。
尚、この写真と青海苔海岸の
2枚は宮島一周をした時の記念写真で、中央に私達が写っており、
個人情報の見地から解らないように消していますので、少しばかり正確性を欠いています。 




同じく昭和43年夏に撮影した腰細浦神社です。
こちらも松林の中に鎮座していた姿を確認でき、現在の神社が砂浜に孤立しているのとは、雲泥の差があります。
位置が変えられているのかなとも、思ってしまいます。 

 

  


青海苔海岸。
岩場までの撮影距離が違っていますので、砂浜の変化が把握しづらいのですが、
岩場の松林が消失している事だけは確認できます